院長エッセイ集 気ままに、あるがままに 本文へジャンプ


父と息子のキャッチボール


二年前の随筆に、私はその年の年男であった父について書いた。タツノオトシゴと題した拙文はおおよそ次のような内容である。

三十代から五十才頃までまともに働かなかった父は、当時我が家に暗い影を落としていたのだが、ひとついい思い出がある。私がまだ幼い頃、海岸で父がタツノオトシゴを捕まえた。父は「めずらしいね。」と言って得意気に笑った。いい笑顔だった。何の因果か、父の煙草はタツノオトシゴを絵柄にした「うるま」だった。多感な少年期、父を疎んじる大きな原因のひとつは天然パーマ。父と私の髪の毛は、まるでタツノオトシゴの尻尾のように、くるりんとカールしているのである。そんな宿痾の遺伝的素因を私の息子も引き継いで、あちこちに跳ねる髪をもてあましている。その息子が中学入試の面接で、「尊敬している人は?」の質問に「父です。」と答えた。不覚にも目が潤んだ。息子の言葉に身が引き締まり、自分の父に対しては、なぜか心が締め付けられる感情が湧き起こった。新年は息子には父として、父に対しては息子として、よりよく生きようと誓った。タツノオトシゴは竜の落とし子ではなく、同じ格好をした親から生まれ、同じ格好の子を産み育てていく。そんな当たり前のことがとても大切なこととして心に残った。

 そのとき書かなかった思い出をひとつ追加したい。父が私の通う小学校のPTA活動に没頭していた頃、小学校の中庭で父と鉢合わせをした。どんないきさつがあったか忘れたが、キャッチボールをすることになった二人。端から見ると微笑ましい光景であったかも知れないが、本来するべき仕事に身が入らない父が情けなくて、私は力まかせに投げ込んだ。「ナイスボール!」。父は息子の気持ちも知らず素っ頓狂な声をあげた。予想を超えた強い球。いつの間にか大きくなった息子が頼もしく嬉しかったのだろうか。いま考えると、それが父の憎めない人柄だったのかも知れない。しかし当時の私は、いたいけにも必死で涙をこらえながら、父のミットめがけ投げ続けた。


 そんな父が、昨年の暮れに亡くなった。八十五才であった。五十才以降は周りの支えもあり、定収を得る仕事もさせてもらい、また沢山の孫にも恵まれ、定年後は社団法人の会長をしたりと、平穏で幸せな晩年を送れたのではないかと告別式の親族代表挨拶で私は述べた。苦い言葉だった。出棺の際父の棺に、かつて父の愛煙した、煙草「うるま」を入れながら、「父にとって、私はいい息子だっただろうか?」と自問し、答えを見つけられずに涙があふれた。「これまでの自分自身に真摯に向き合って、自分で答えを出すから、、、。」祭壇の遺影は、いつか海岸でタツノオトシゴを捕まえた時のような、小学校の中庭で「ナイスボール!」と声を上げた時のような屈託のない笑顔で笑っている。父と息子、初めて心のキャッチボールが出来た気がした。
 


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